小説とは「物語性の否定」である。二項対立を超え、留保する力を養おう。

文学を考える
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世界最初の小説は「ドン・キホーテ」であると言われている。

騎士道物語に対するアンチテーゼとして書かれた作品だ。
ドン・キホーテは騎士のように、敵を打ち倒し、姫を救う物語に憧れ、
自分もそのように生きようとした。
現代でいうところの、中二病のようなものだ。
物語に影響を受けていること自体が、笑いの対象として相対化されている。

つまり、小説の条件とは、「物語性の否定」にあると見ていい。

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物語は「二項対立」を前提とする。

物語性とは、「二項対立」の分かりやすさを前提とする。
対立する両者の融和・あるいは対決が、物語では語られる。
主人公とヒロインが結ばれる恋愛物語や、
主人公と敵が対決する騎士道物語など、あらゆる物語の類型がこの構図に当てはまる。
そんなもの現実にはないよね、というところから「小説」は出発した。

物語的な文脈は、ぼくたちの生活にはあふれている。
たいていは物事を分かりやすく捉えるために用いられている。
善悪の二項対立に落とし込まれ、単純化され、細部はとりこぼされていく。
実はその細部にこそ重要なものが隠れているというのに。

二項対立は、「敵をつくる」わかりやすい物言いによって人々を操作しようとする人が利用する。

  • ナチスにとっての「ユダヤ人
  • トランプ政権にとっての「不法移民
  • 貧困層・中流階級にとっての「上級国民

上記のように、政治的に利用される例は枚挙に暇がない。

実は、そう単純な「悪の権化」などいない

ナチスは「ユダヤ人が悪、と名指ししていた側こそが悪」という構図の鮮烈さで今も受けているが、
こういった「支配者こそが悪」という構図もまた物語性に回収されていく。
現在では、
ナチスは選挙で民主的に選ばれたよね
民衆が望んだ存在としてナチスがあるんじゃないの?」という議論もあるぐらいだ。

物語性は、世界を矮小化しがちなのだ。
そこで、物語性に対する批判として「小説」が立脚する余地がある。

小説に「英雄」はいない。ただ「悩む人間」がいるだけ。

かつて、西洋には、叙事詩という文化があった。
これは英雄による物語。
それに対して小説は人間を描く物語とされている。

小説という形で描かれると、英雄も「等身大の人間」として描かれる
神話的英雄を描こうとすると、「リアリティ不足」と言われてしまう。
神話的英雄は、「悩まず」「変化しない」ものだからだ。

たとえば現代の作品では、どれほど英雄的な人物を描いていたとしても、
悩み葛藤する一個の人間として描かれることがほとんどだ。
どんなに無意識に書いたとしても、有史以来の「小説」文化を通過して書かれているから、
必然的に、そのような書き方になっていく。

これは「小説」が歴史的に「英雄未満の人間たちを描くもの」として扱われてきたことからきている。

つまり、小説は「二項対立だけでは割り切れない、ちいさな人間を描く」というものなのだ。

小説で「答えを留保する力」を養える。

人間にはさまざまな事情があって、ひとつの極端な類型にはとどまらない多面性がある。
E・M・フォースターの定義に「フラットキャラクター」と「ラウンドキャラクター」があるが、
小説には「ラウンドキャラクター」が(少なくとも一人は)存在しなくてはならないということになる。
(乱暴に定義すれば「フラット」は一面的で悩まない人物、「ラウンド」は多面的で悩む人物)

小説読者は彼らの多面性に触れていくことで、
分かりやすい物語性に飛びつかず、「ちょっと待てよ」と考え、
さまざまな事情や背景を斟酌し、
白黒をつけるのではなく、灰色のままに答えを留保しておけるようになる。

最近の「炎上」には、やはり二項対立的な物言いが多く潜んでいる。
小説をきちんと読み、答えを留保できるようになれば、
分かりやすい結論にとびつくのではなく、自分なりの考えから出来事を見ることができる。
「答えを留保できる」というのが重要なスキルなのだ。
それは頑迷さではなく、柔軟さを手にするということだ。

小説を読み書きしていこうとするなら、こういう「留保の力」を実感していこう。

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