ことばはつかうと減っていく。
これは驚くべきことに、真実である。
大量に書く――ぼくの場合、おおむね日に十枚ていどが限度である――日々をおくっていると、
おおよそ十日ほどで、じぶんのなかのことばが尽きているのを感じる。
おなじ表現をくりかえしたり、おなじ単語を反復していたりする。
登場人物は眉をひそめるか肩をすくめるかしかしなくなるし、
抜けるような青空やら手の切れるような新札やらが次々と顔を見せ、
夜の帳が下りたり蜘蛛の子を散らしたりしてしまう。
語彙の引き出しが空っぽになったのだ。
こうなると、じぶんがどうしてこうも文章のセンスが無いのかと苦悩する羽目におちいる。
最後の買い物から一週間経ったのちの冷蔵庫をながめるようなきぶんになる。
ごぼうの切れ端とたまねぎ一個と半分だけのにんじんで、どうやってうまい料理をつくれというのか。
けれども、大丈夫。
食材が足りなければ、買いにいけばいい。
つまり、本を読むのだ。
もちろん書きながらも継続的に読めているなら問題ないのだけれど、
ぼくのようにサラリーマンをしながら空いた時間を執筆に充てていたりすると、
書くほうが興に乗りはじめたとたん、読むほうがおろそかになったりする。
たんじゅんに、空き時間が限られているのだ。
生活の切れ端を、どうにか執筆に割り当てているのだから、
読書のほうがおろそかになるのはしかたない。
そこで、ばりばりと書いているときには、
一日分のノルマを書き終えたのち、十五分ていどの読書時間を持つように努めよう。
読みふけってはいけない。
睡眠時間をいたずらに削ったりする羽目になれば、執筆の能率まで落ちる。
そこで、文章を調整するための読書には、下記のような条件を勧めたい。
- すでに何度も読んだ本を読むこと
- 語彙力補給、文章表現補給の二種類を使い分けること
- 会話シーン、情景シーンなど、いま書いている箇所に近い部分を読むこと
解説していこう。
すでに何度も読んだ本を読むこと
読みふけらない対策として重要である。
今回紹介しているのは、たんじゅんに創作の合間にことばを補給する用途での読書である。
夢中で読みふけってしまうと、たいがいの場合、文章は目の前から消失する。
分析的に読むときには、かえって危険なのだ。
何度も読み返した本を選ぼう。
きみが作家志望なら、大量に読んできた小説のなかに
「こういう文章が震えるほど好き」
「こんな文章が書けたら死んでもいい」という本が何冊かあることだろう。
そういうものを選べばよい。
いずれにしても、影響を受けるものを選ぶことはできないのだ。
しぜんと読み返してしまう本、何度も書棚に手を伸ばしてしまう本があれば、それでよい。
背伸びをする必要はない――ライトノベルでも、児童文学でも、マイナー小説でも、ベストセラー小説でもいい。
おそらくそこにきみの文章の源泉があって、そこでしか補給できない成分があるのだから。
語彙力補給、文章表現補給の二種類を使い分けること
ことばが足りなくなっている――というとき、おおよそ要因には二種類ある。
ひとつは、語彙の不足。
ひとつは、表現の不足。
順番に見ていこう。
語彙が不足したときは「すこし古い日本文学」を読む
前者はおもに、語彙――すなわちたんじゅんな単語量の不足だ。
すこし古い日本文学を読むのがよい。
明治期から戦後ぐらいまでの作家は古典の知識を前提としているひとが多いから、
いまとくらべて語彙の絶対量が多い。
余談にはなるが、日本語の源泉は漢文にある。
漢文の素養のあるなしで、使えることばの量はそれこそ桁が変わると言っていい。
もっと本格的に語彙量を増やす勉強に乗り出すつもりなら、漢文を学びなおしてみるのも手だろう。
おすすめは、三島由紀夫である。
三島は、あまり若い頃に心酔しすぎるとその影響下から逃れがたくなるきらいはあるものの――やはり外すことができない作家だろう。
こと語彙を学ぶという一点においては、他の追随を許さないものがある。
熟語に目が行きがちだが、述語の使いさばき方にも注目してほしい。
動詞の使い方ひとつで、これほどに文章の艶っぽさが増すのだと実感できるはずだ。
文章表現が不足したときは、「世界文学」を読む
後者――文章表現が不足しているときには、世界文学に目を向けてみるのがよい。
翻訳はほんらいの文章の劣化コピーでしかないから読む価値がない……という指摘もあろうが、
ぼくは「文体とは、どのように描写を取捨選択し並べてゆくかによって示される」という見解を支持している。
表面上の文体――敬体・常体の選択や、一人称の選択、漢字のひらくひらかないなどという
字面だけの部分は、その作家の本質には関わらない。
情報をどのように選び、配列するかという部分については、翻訳でも損なわれない部分だ。
というわけで、大手を振るって翻訳文学を読もう。
そこでしぐさや感情表現、自然描写などを取り入れてゆこう。
日本の現代文学では見つからなかった収穫が多いはずだ。
おすすめを挙げるなら、トルストイだ。
トルストイは小説がうまい。闇雲にうまい。
どんな難易度の離れ業でも、こともなげに書きさばいてみせている。
多人数が同席する空間はおろか、幾万もの人間が入り混じる混乱をきたした戦場でさえ、
彼の筆にかかれば明解に解きほぐされる。
「誰が読んでも、いまなにが起きているか分かる」というのが、いかに驚嘆すべきことか、
書き手であるきみには分かってもらえるはずだ。
長大な作品ばかりが連なっているためになんとなく尻込みしてきた作家だとは思うが、
ぜひ一度読みとおし、折に触れていくども読み返してほしい。
「小説」というジャンルの頂点をきわめた作品群をひもとくことで得られるものは、絶大だ。
会話シーン、情景シーンなど、いま書いている箇所に近い部分を読むこと
とくに詰まっているときにこそおすすめしたい手法だ。
いくども読み返す座右の書については、
会話シーン、情景描写、戦闘描写、回想、謎解きなど、
ありとあらゆるシチュエーションにあらかじめ区分けしておくとよい。
具体的には、上記のように名づけたラベルを付箋で本に貼り付けてしまうのだ。
すると、ことばが出にくくなった――というときに処方薬のように読み返すことができる。
付箋箇所をめくることで、師と仰ぐ作家がどのように当該シーンを処理しているか、
どういう工夫を凝らして乗り切っているか、見つめることができる。
このひとのように書きたいと思う作家が、
どういう技術を用いているか、一行ずつ舐めるように読み込んでみよう。
シーンまるごとを書き写してみるのもよい。
あらためて線を引きながら効果を分析するのもよい。
とにかく、現状打開のために、師匠の力を借りてしまえばよい。
また、よほど超絶技巧の作家でなければ、そこに苦心惨憺の跡も垣間見えるはずだ。
「先生もこれだけ苦労されてるんだ。ぼくもがんばるぞ」
と励まされるだろう。
いわば、きみの執筆に、師匠が並走してくれるのだ。
これほどありがたく、また心づよいことなどまたとない。
付箋や線引きが邪魔で、虚心坦懐に読み返すことができなくなりそうだ――と思ったら、
もう一冊買えばよい。
そちらをまっさらに保っておれば、それで済む。
同じ本を複数冊買えば、師匠の懐も潤う。
一挙両得である。
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