本は読み返すものである。
いくどもいくども読み返し、一行を身に染ませていく。
呼吸のリズムを合わせ、語彙を丸呑みし、演出を無意識に盗む。そうこうしているうちに、一冊の本ときみとの境界はあいまいになり、やがては血肉化して離れなくなる。
ひとりの書き手は、こういう過程をくりかえすうちにオリジナリティを勝ち得ていく。
きみがものを書く人間であれば、おそらく、しぜんとこうした営為を行なってきたはずだ。
あらためて、書棚を眺めてみるといい。
一度通読しただけの本や、まだ読了していない本たちに混じって、何度も読み返している数冊が、
かならず目に入るだろう。
別言すれば、そういう座右の書を一冊も持っていないうちは、書く段階にきみはまだきていないということになる。
文体というものを、おろそかにはできない。
小説が、ことばを、ことばだけを道具とする芸術であるかぎり、
その使い方にすぐれたところがなければ、きみの書くものに読む価値はない。
文体を、はっきりと確立せねばならない。
まったく独自の文体などというものは、ない。
ことばというのが、そもそも他人からの借り物である。
これまでに幾億もの人びとが使ってきた道具をつかおうとするのだから、
書かれたことのないことばなど皆無といってさしつかえない。
けれども、それでありながら、文体というものは書く人間によって千差万別たりうる。
組み合わせの可能性がほぼ無限に拓けているからだ。
ひとりの作家に影響を受けたとする。
その呼吸と語彙と演出を身につけ、書く。
すると、その作家の劣化コピーにしかなりえない。
けれども、影響を受けた作家が、二人、三人、四人……と増えていったとする。
こうなれば、組み合わせはまさに無限だ。
太宰に影響を受けただけで筆をとれば、無数の太宰フォロワーのなかに名を連ねるだけに終わるが、
そこに村上春樹、ディケンズ、ブコウスキー、ピンチョン、キング――と付け足されていけば、
もはやそれは完全一致するほうが難しい。
文体は、実のところ、こうやってあらゆるものを読み、取り込んでいく過程で築かれていく。
つまり、文体を確立するためには、すくなくとも数冊ていどの「座右の書」は、
必要となってくるのだ。
以下で、そうした本との付き合い方を考えていきたい。
一年に一度、あらためて通読する
これはよい、面白い、すばらしいと思った本については、
一年に一度を目安に、1ページ目から再読してみることを勧めたい。
これは座右の書に対してのみならず、一度読んで面白かった小説すべてに適用するルールとしていく。なぜなら、これは座右の書を見いだすためにも有効な手法であるからだ。
本は忘れていく。
忘却曲線にしたがい、見事なまでに定着せず抜け落ちていく。
一年も経てば、ほぼ跡形もないと思っていい。
再読で、まずきみはずいぶん楽しむだろう。
一読して面白かった本は、たいてい、再読しても面白い。
なるほどいいね、と思いなおして書棚に戻す。
また思い出して書棚から引っ張り出す。
いよいよ三読目である。
こうなると、作品の真価が問われる。
二読すると否が応でも筋を覚えこんでしまうことになるからだ。
先がどうなるのか分からない――というハラハラドキドキを超えた先に、
なおなんらかの面白さを担保しうるか。
ここではじめて、作品の正体が見極められるのだ。
三読してなお面白ければ、ストーリー以外のなにかがきみの心に刺さっているとみてよい。
細部の描写、文体、登場人物の深み、台詞の持つ奥行き……
どこかに、きみに刺さるポイントがあるのだ。
そしてこういう本こそ、きみにとっての座右の書となる。
このためにやるべきことは、簡単だ。
一読して面白かった本は、ひとまず買っておくこと。
買って読んでいたなら運がよい。
図書館や友人に借りた本なら、あらためて買う。
そして書棚に並べておく。
背表紙を眺めながら日々を暮らし、ある日ふいに「そうだ、読み返してみよう」と思えたなら、
さっとひっぱり出す。
これだけでいい。
むずかしいことはなにもない。
三回読んで面白ければ、きみは座右の書を一冊増やせたということだ。
喜ぼう。
何度も読み返せる一冊を得たことは、きみの読書人生にとっても大きな収穫だ。
たとえきみが書かなくなったとしても、その価値は計り知れないほどにおおきい。
常に持ち歩き、折に触れて一行を読む
三回の読了を終えて、晴れて座右の書となった本は、どこかのタイミングで1年間の「同行」を行おう。
「同行」とはつまり、「外に持ち出して、ともに歩く」ということだ。
ふだん持ち歩いている鞄のなかに、放り込んでおけばいい。
毎日読む必要はない。
けれども、たとえば電車のなかでふいに読むものがないとき、他の本を読む気になれないとき、待ち合わせのあいまに時間が生まれたとき、喫茶店のなかでものを書くのに倦んだとき、そういったタイミングで引っ張り出してくればいい。
頭から読む必要はない。
てきとうにぱらっと紙面を開いて、そこから読めばいい。
気に入らなければもう一度ぱらりとやる。
読むのは一行だって一段落だって構わない。
そうやってめくる回数を増やしていくと、血肉化はより加速する。
その本を開くのが常態化して、あたりまえとなり、開いてもなにも思わなくなり、
読んだ一行がじぶんのなかにすでに存在していることを発見したとき、
きみは座右の書ときみ自身とが一体になっている事実を見いだす。
本がぼろぼろになった?
もう一冊買おう。
ぼろくなった方は、付箋を付け足して、線を引いて、参考書のように徹底的に分析しつくすのに使ったっていい。
ただし、決して捨てるな。
座右の書なら、何冊も同じ本が書棚に並んでいるべきだ。
あの一行を読みたい、という衝動に従う
ときどき、なんの脈絡もなく、「あの一行が読みたい」という衝動に取りつかれることがある。
何度も読み返した本の一節が頭に浮かび、離れなくなる。
ぼんやりと思い浮かんでいる文章を、じぶんの目で追わなければ気が済まないというきぶんに陥る。
そういった衝動には、すなおに従おう。
きみのなかの「なにか」が、その一文を必要としているのだ。
書棚に手を伸ばすことを躊躇するな。
ほかの本を読んでいようが、飯を食っていようが、仕事中だろうが、ためらわずに手を伸ばしてよい。
きみは「書く人間」なのだ。
文章はきみにとって食物同然だ。
そのために、電子書籍でも同じ本を持っておくのは勧めたい。
出先でスマホ版kindleを開けば、
唐突な飢餓感にも立ち向かうことができる。
電子版が配信されていないなら、
もう一冊買って自炊し、PDF版にしてスマホに入れておいたっていい。
手段を選ばずに、とにかく好きな文章に触れる機会を増やすのだ。
そうやってふんだんに手間をかけて養ってやった感受性は、かならずきみの武器になる。
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