初稿は手書きで書け。そして必ず書き直せ。

本文を書く
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0から1を生み出すのは大変だ。
だから、なるべく早く「1」にたどり着くのが肝心となる。

小説を書けない人たちは、ほとんど、初稿を書き上げられないでいるのだ。
このハードルは高い。
逆に言えば、初稿さえできてしまえば、そこから完成にたどり着くのはたやすい。

とにかく、初稿を書くこと。書き上げること。
これがすべてのカギを握る。

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初稿はとにかくひたすら前へ書け

では、どうやって初稿を書き上げたらいいのだろうか?

「脚本を書くための101の習慣」という本を眺めてみよう。


これはハリウッドの第一線で活躍する脚本家たちに、
同じ質問を投げかけてその回答の差を比べるという本だ。

体系的にまとめられたノウハウというよりも、
創作を行う人びとの生の声を聴けるという点で価値がある一冊だ。

初稿を書く時は、出来るだけ早く、スペルすら確認しないで書き飛ばす。調べ物もしない。流れが滞るからね。書き終えた初稿を印刷して、それを相棒の赤ペンと一緒に直していく過程がいつも楽しみだ。もっとも直したものをコンピュータでタイプし直すのは嫌いだけどね。どうせ書き直すとわかっているから、書いた脚本に失望したりはしない。一度テレビでジョージ・ルーカスのインタビューを見たことがある。ルーカスがフランシス・コッポラから教わった秘訣を話していた。書き終わるまで読まない、ということだ。書き終わった原稿は綴じて片付けてしまう。全部終わって振り返る勇気が持てるまでは絶対に見もしないんだそうだ。

スティーブン

少なくとも最初の草稿を書く時は、脳内批評家には黙っていてもらう。だって初稿以外にいつ頭のなかにあるもの全部吐き出す機会がある?

トム

まず、ストーリーが明快であることと構成がちゃんとしていることだけ確認したら、出来るだけ手早く、滅茶苦茶でもいいから書く。1日10ページとかですね。台詞と自分へのメモがごちゃ混ぜになったような、全体の形がわかればいいという感じの原稿を書きます。

アキヴァ

最初の草稿はいわゆる“ゲロ稿”として書く。登場人物が途中で違う感じになってしまっても、テーマが何処かにいってしまっても、サブテクストがあってもなくても、気にしない。ともかくプロットを110ページに叩きつけるように書くんだ。

デレク

脚本家たちの回答に共通するのは、初稿はあくまで「書きなぐる」べきものであるという事実である。

とにかく、てきとうに書く。
嘔吐物のようなぐちゃぐちゃなものであっても、
じぶんへのメモ書きを混ぜ込んだ雑多で未完成なものであっても、書く。
結末に至るまでは書くのをやめない。
どんなかたちであれ、いちど最後まで書ききってしまう。

こうすれば、1が生まれる
きみの目のまえに現れるのは、白紙ではなく、文字で埋まったひとつの原稿だ。
これさえあれば、あとは「生み出す」必要なんてない。
ただ、「直せ」ばいいのだ。

この違いは大きい。
直すのは、たやすい。

はじめから完成原稿を書こうとすると、行きつ戻りつ書き継いでいくことになる。
ことばを書き、いやこの表現は違うと消し、文を入れ替えたり単語を差し替えたり……たしかに文豪らしいしぐさではあるものの、こんなことをしていたら、いつまで経っても完結までは至らない。

パソコンにも問題があるだろう。
直しやすすぎるのだ。
消したければバックスペースを押せばいい。
入れ替えたければコピー&ペーストを使えばいいし、ことばを書き直すにも大した時間は掛からない。
そのハードルの低さによって、きみは直しながら書いてしまう。

実を言えば、ほんとうに没頭して書いているとき、脳裏からは文章が消え失せている
没頭して読んでいるときと同様だ。
文章ではなく映像を見て、それをただ紙の上に移しているだけのようなきぶんになる。
これが、ただしい書き方だ。

しかしいちど直し始めてしまうと、文章は消え失せてくれなくなる。
いつまでも映像は立ち上がらず、
きみはモニターに映し出されたフォントを見つめつづける羽目になる。

想像を、解き放ってやるべきだ。
没頭を、許してやるべきだ。

想像するときは、作家の時間だ。
修正するときは、編集者の時間だ。
きみは原稿もなしに編集者と打ち合わせをはじめるつもりなのか?
違うだろう?
まずは作家として書き、編集者として直すのは後でやるべきことだ。

日本語なんていくらでも崩壊していい。
辻褄なんていくらでもずれていい。
登場人物の人柄や発言が食い違ったっていい。
ただ頭の中にあるものを、紙に移すだけだ。

手書きで書いてみろ

パソコンは便利すぎる。
であるなら、きみは手書きで書くことを検討してもいいだろう。

じっさい、ぼくは初稿を手書きで書く

コクヨの原稿用紙に、鉛筆で書いている。
鉛筆を使うのは「書こうとしたのに書けなかった」というストレスがほとんどないからであって、
消しゴムで消せるからではない。
消しゴムで消すのは初稿向きの動作ではない。
間違えた字はぐりぐりと黒く塗りつぶしてしまえばいい。

ぼくは、ただ書く。
ただえんえんと鉛筆を走らせる。

思いついたことはそのまま書く。
文章は箇条書きみたいだし、人物の発言は味も素っ気もない。
話は途中でズレるし、思いついた別ネタは欄外にとどまらず本文中へと食い込んでいる。

それでいい。

どうせいまどき、手書きで原稿を受け付けてもらえる箇所などない。
原稿用紙に書いたものは、後日パソコンに移し替えられる。
必ず、もう一度書き直す羽目になるのだ。
汚かろうがなんだろうが、どうせじぶんしか見ない、書き捨てのメモ書きなのだ。

ただ、前へ前へと書いていく。
後ろには戻らない。
プロットがあればプロットに従ったり逆らったりしながら、ただまえに進む。

翌日になっても、読み返さない。
読み返すと書き直したくなる。
文章や展開を改めたくなる。
それはしない。
ただ、区切りのいい地点にたどり着くまで書きつづける。

短篇なら、そのままエンドマークまで打ってしまってから、はじめて第二稿へと移るのだけど、
長篇だとそうはいかない。
長い長い小説を書きつづけていれば、方向性の間違いには敏感にならねばならないからだ。
だから一話分ないしは一章分を書き終えたら、そこで第二稿に着手する。

手書きの文章を、パソコンに引き写していく。
やってみれば、驚くはずだ。
どんなにひどいものであっても、直せる。
どんなに空白だらけであっても、怖くない。
一度完成してさえいれば、直すのはさほど難しくないのだ。

初稿の出来がいいときもある。
喋るように書かれたものになっているときだ。

ほんらいことばはそのようにして、生まれてくるものだ。
喋るように書かれたことばは、まだ死んでいない。
直されていないからだ。
リズムがあり、躍動がある。
そういうふうに乗って書けたときの初稿は、抜群だ。
じぶんはまだまだ捨てたもんじゃない、なんて思える。

直しながら書けば、こういう初稿は書けない。
ことばが殺されてしまう。
ことばはいつか殺してその血をページに定着させてやらねばならないが、いまはそのときではない。

ただし、どんなに出来がよくとも、第二稿を書くことを怠ってはならない。
どんなに完璧に見えた原稿にも、必ず穴がある。修正すべきところがある。
それは、書き直す段階でしか発見できない。

必ず、必ず書き直せ

日本の作家は、一般的に書き直しをほとんどやらないと言われている。
とにかく、時間がないのだ。
彼らは数か月に一冊の新刊を求められ、まだじゅうぶんに書き直されていない原稿を奪われては印刷に回されてしまう。
だから、粗い初稿がそのまま本になっていて、読者もそれが完成品だと思って読んでしまう。

これでは、だめだ。
これでは、だめなのだ。

必ず、書き直されねばならない。
それも、1から書き直されねばならないのだ。

初稿をかたわらに置いて、別の原稿用紙なりモニター上なりに、それを一文字目から愚直に引き写していく。
写経の心持ちで、書き直していく。

この労力は、怠ってはならない。
ざっと初稿を眺めて赤ペンで修正箇所を書き込んでいくだけで満足してはならない。
それは、書き直しではない。
赤ペンを使うのもいいが、赤ペン修正が終わったあとには、必ず1から書き直すのだ。

真摯な作家は、必ずそうしている。

そうするしかないのだ。
書き直すことによってしか、原稿の質を高めることはできないと知っているから。

面倒くさいとつぶやきながら、凝った首を鳴らしながら、必ず書き直すのだ。

創作の女神は、そこに現れる。

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